「短歌の目」8月 自作振り返りです

「短歌の目」8月に参加しました。

短歌の目第6回8月のお題と投稿、怪談短歌です - はてな題詠「短歌の目」

 

誰かがわたしの短歌に書いた感想を読むこと、誰かが誰かの短歌に書いた感想を読むこと、誰かが自分の短歌に書いた感想を読むこと、そのどれも楽しんでいます。特に他の方の自作振り返りは、わたしが抱いた感想との答え合わせをするようでスリリングでもある。感想を読んでから改めて短歌を読むと、見解が変わったり、より強く印象に残ったり、とにかく何らかの作用があり、感想を含めての短歌を気に入りすぎて百人一首のように暗記してしまったものもいくつもあります(感想ごと覚えてしまった)。

その感想を自分で書くとなるとちょっと難しいというか恥ずかしいというか、と思っていましたが、今月は感想についてのエントリも多く、読んでいるうちによしわたしも書かなきゃと思えましたので、以下に記録します。

 

感想を書くにあたっては、以下の点を区別するよう気をつけました。

自作短歌について
  • 短歌の背景(日記的なもの)
  • 制作過程、反省など
他の方の短歌について
  • わたしの読み方
  • 短歌としての感想
  • その短歌から連想した事柄、思い出(わたし個人の日記的なもの)

短歌は詠んだ方の背景や人となりを理解しないと正解を導くのは難しい、とは思うものの、読み取る側にもその短歌が響いた背景があるわけで、だから正しく読み取れるよう努力はしますけれども、自分なりのストレートな見解も述べていいでしょうか。それを文章にするのはわたし自身の記録のためなのかもしれない。しかしそれを他人様の短歌に絡めるということはやはりひとの褌で相撲を取るようなずうずうしさは否めないので、せめてそれだけで終わりにはならないように、したいです。

 

 

 他の方の、といいつつ、まずは自作短歌の振り返りから。

 

1 ジャワ
「なに食べる?『なんでもいい』はナシにして」 予定調和のジャワとアラスカ

 小学生が夏休みに入る頃、職場で話題になるのは子どもの昼ごはんのこと。毎日家にいるから作るのが大変だという。

「今日、なに食べたい?」「えー、なんでもいい」「なんでもいいじゃなくて」「じゃあカレー」

みたいなやりとり、わたしも覚えがある。じゃあカレー、と言うまでもなくカレーの準備がしてあって、なんだよそれなら聞かなくてもいいじゃんって。それだけじゃなんだからサラダも作りましょ、的な。サラダにはアラスカ入れましょ、的な。

サラダアラスカ(10本入り)

サラダアラスカ(10本入り)|ちくわ・かに風味蒲鉾・笹かまぼこ|商品情報|株式会社 堀川

これどうしてアラスカなんて名前にしたのかな、説得力はあるけど。

 *

 予定調和という単語が浮かんで、それから意味を調べて、もとは哲学の学説のひとつという情報を得ました。カレーなんて日常的なものと哲学のかほりとが並べば、そのちぐはぐさがスパイスになるのではないかと(カレーだけに)。

“ジャワとアラスカ”は南北のコントラストを表現したくて並べました。“ジャワとシベリア”でもよかった、けれどもシベリアって甘いお菓子でしょう、カレーのお供にはそぐわないので却下。

上の句は”予定調和”を引き出したくて考えただけの会話です。この後に続く「じゃあカレー」を、連想できたでしょうか。

 

 

2.くきやか
夏の夜は げに“からふる”がゆきかえど くきやかなるは腕に抱くあか

夏祭りに娘を連れていったときの歌です。赤い甚平着せていきました。

初句と二句、本当はつなげておきたかった。すると“なつのよる はげにからふるが…”と読めてしまって、仕方なくスペースを入れた次第。

赤子と赤い甚平(もしくは浴衣など)の両方を表現したかったので、“あか”を平仮名で表記。対照となる“からふる”も平仮名に揃えました。

 

 

3.蝉
たましいの羽化した蝉の抜け殻はタンパク質を ( よる )に晒して

 蝉は刹那的な生き物の象徴のように思えてしまってそこに物語を見出そうとすることもあるのだけど、結局はその他大勢の動植物と同じように死んだら他の生き物に食べられるだけだと、ベランダに転がる死骸を見ながら思いました(よかったら蝉日記もご覧ください)。もしくは物語というのなら、幼虫と成虫の時期を経てやっとのこと解放されたたましいが飛び立っていくのかな、などと。

下の句が浮かんでから上の句を考えたので、つながりがスムーズでない。

“たましいの羽化”というフレーズはよくできたと自分では思うのだけど、“羽化”と“蝉の抜け殻”からは「幼虫から成虫への羽化」のイメージが強くて、これつまりは死んだってことなんです、というのが伝わりにくかったかな、と反省。

お気に入りの短歌なので、もっともっとよく練れば、納得のいくものができただろうか。できなかっただろうか。

 

4.冥
水黽( アメンボ )がおよぐ水面は灼熱で それは冥土へ続く硝子で

炎天下に車で外出した。信号で停車した際、どこからかアメンボが飛んできて、フロントガラスに着地した。青空を映すガラスを水面だと思ったのだろうか、一生懸命に手足を動かして泳ごうとしていたけど、そのうち干からびて死んでしまった。わたしはウインドウオッシャー液を出して、それを洗い流した。そんな思い出。

“冥”はわたしがリクエストしたお題です。死の匂いをまといつつも悲壮感のない、そんなイメージの短歌を詠んでみたかったのだけど、モチーフ全然思いつきませんで…身近であったそれらしいことをそのまま詠みました。悔しいです。

 

 

5.まつり
お湯沸いた!赤子が泣いた!ネコ起きた!魚が焦げた!まつりだまつりだ!

手が離せない事柄が同時多発すると、もうどうにでもなれ状態になります。頭の中では「買い物ブギ」が流れて、オッサンオッサンオッサンオッサン…。今あらためて歌詞を見たら、この曲はまつりとは関係なかった。

その勢いでできあがった短歌。

 

 

6.日焼け
桃ひとつするりと皮を剥ぐきみの肩口つかまえはぐ日焼けあと

桃をひとつ、スーパーに並んでるので一番いいのを買ってきて、数日間常温でしっかり熟れさせてから満を持して剥いた。桃の皮は簡単に剥けると言われ続けていたのにわたしはいつも上手に剥けなくて、でも今年はするんと剥けて、この感触は覚えがある、そうだ日焼けの皮にそっくりだ、と感激したところで詠みました。

“はぐ”という言葉を二回出しました。同じ語を重ねるのは抵抗があったけど、二回目の“はぐ”は「剥ぐ」と「ハグ(肩口を抱きしめる)」ふたつのどちらもイメージできたらなと。

“肩口つかまえ剥ぐ日焼けあと”では海やプールなんかでがっつり日焼けした子どもの肩口(色黒、桃と対照的)を、

“肩口つかまえハグ日焼けあと”ではおねえさんのワンピースの襟元からのぞく水着の跡(色白、桃と同じ)を。

両方のイメージが浮かんできて、どちらかを選べなかったんです。

 

 

7.くちづけ
さっきのは人工呼吸の練習で…くちづけなんかしてないからねっ

溺れた彼を助けたんでしょうか、プールサイドでチュウしたんでしょうか。今どきの女学生は、くちづけなんて単語を使うのでしょうか。

恋の歌を詠むのは気恥ずかしさがあって(それでも詠んでしまうこともありますが)、“くちづけ”なんてあまりにも直球なので誤魔化し半分の短歌です。

なにも恋に直結して詠まなくてもよかった。もっと身近なものを観察しておけばごく自然にくちづけに置き換えられるようなモチーフを発見できたかもと思うと、悔しいです。

 

 

8.風鈴
風鈴や エアコン売場に就職し養殖の涼を ( ひさ )ぐこの夏

電器屋に行ったら冷房機器のコーナーに風鈴がぶら下げられていて、冷風をあびてチリンチリンチリンと絶え間なく鳴っていた、うるさいくらいに。風鈴といえば夏の風物詩として主役級の働きをするのに、この売場の中での主役はエアコンで、風鈴は引き立て役に過ぎないのだな、と思ったときの歌(よかったらエアコン日記もご覧ください) 。

もしくは、エアコン売場に配属されて買うのか買わないのかわからない客相手に夏の間じゅう商品の説明をしなければならないケーズデンキの店員さんについて(風鈴の音はさぞかし耳障りだろうなと)。

“しゅうしょく”“ようしょく”“りょう”の語感を揃えたくて、それぞれの語を選択しました。しかしそのことによって、風鈴を擬人化した、という点が伝わりにくくなってしまったかもしれません。

 

 

9.菊
笑ってはいけない読経 仏壇の菊グッズさえツボに入れば

神妙にしなければならないときに限って笑いの沸点が低くなり、しかもこらえればこらえるほどいろいろなものが気になって、ありがたい読経の最中に苦しい思いをしたことが何回かある。そういうときは無邪気な親戚の子どもの一言が凶器にもなりうる。

“仏壇の菊グッズ”というフレーズはもっと改良の余地があったと思う。仏教関連の用具の多くに菊が使われているイメージだけど、知識がないからうまく言い表せなかった。

 

 

10.【怪談短歌】
その、先、を、読めば、読むほど、気になって、バックライトの、及ぶ、その、先、

 布団に入ってからスマホを取り出して、止せばいいのに怪談話を読んだりする。読んでいるうちに案の定怖くなって、ブラウザを閉じてもう寝てしまおうと思っても、続きが気になるし、それからスマホを消した後の暗闇も気になる。だからダラダラと読みつづけ、ズブズブと恐怖の沼にはまっていってしまう。わたしの悪い癖です。

ここでも“その先”を二回使ってしまった。一回目は「怪談話の続き」、二回目は「暗闇の先」を表現したかったのです。

怪談話を読んでいる目線の緩急を表現したかったので、読点を多用しました。

 

 

以上、自作短歌振り返りでした。

短歌の目の投稿作を読みにいくと短歌のブログパーツを貼っている方や歌人の短歌を紹介している方がいらっしゃって、つまりいろいろな短歌を目にする機会が多くなって、わたしもこういう短歌を詠んでみたいという目標(というか野望)がひとつ、できました。そんなわたしの短歌に感想をいただくこともあって、それが意図したものであってもなくても、「こう読めた」と教えてもらえるのはとても嬉しいしありがたいです。意図したものでないとすれば正しく伝える努力をしたいし、もしくは自分の短歌をまったく違った見方で読むきっかけにもなります。それが面白いと思えるようになりました。

自作・他作の振り返りで、鑑賞スキルや客観的に見る力が少しでもアップすればいいなと思います。