無題

2016年2月27日 晴れのち雨 風邪ひいた


「検査が終わったわ。目を開けていいわよ」

低くはっきりとした女性の声にゆっくり目を開けると、緑色の天井が見えた。視界の端には白い蛍光灯。頭を動かすと緑色の壁があり、自分がベッドに横たわっているのが確認できた。声が聞こえた左側を向けば、背筋をぴんと伸ばした白衣の女性が枕元の椅子に座ってこちらを見ている。
「検査の結果を報告するわ。あなたには“Kの遺伝子”が組み込まれている。さすが、あのお方の子だわ」
手にした電子パッドに顔の半分は隠された女性の、液晶モニタに照らされた目元は若々しく、髪と眉は茶色に染められていた。長い髪は後ろで綺麗な一本に束ね、キリリとした眉は短い前髪の下で微動だにしない。
「Kの遺伝子…」
呟いた自分の声が、いつもと違う声に聞こえる。この女性がいうあのお方とはきっとわたしの父親のことだろう。嫌いで嫌いで仕方がなかった父親、忌まわしき“Kの遺伝子”に取り憑かれ振り回され、ある時は人が変わったように苛立ちを露わにし、またある時は魂が抜けたように虚ろな目をしていた父親。それと同じものが、わたしの中にも組み込まれていたなんて。知らずのうちに涙が溢れてきて、止まらない。
「大丈夫、心配しないで」
女性の声も、どこか遠くに聞こえた。
「あのお方も、そのお父様も、そのまたお父様も…、みんな通ってきた道よ。あなたにも克服できる。わたしたちも万全のサポートをするわ」
「みんなって、オトコばかりじゃない…」
わたしは鼻をすすり上げながら、弱々しく抗議した。
「それは……、」少し柔らかくなった女性の声。「そうね。あなたのお母様は、北国のご出身だったかしら」
そう、わたしの母親は、東北の山村に住む木こりの娘だった。彼女が生まれ育った山や里に、幼い頃のわたしはよく遊びに行ったものだ。春は山菜、夏は蛍、秋のアケビ、冬のスキーと、一日中山に囲まれて過ごした。父親があの“Kの遺伝子”に狂い出すまでは…。
「今のあなたが“Kの遺伝子”に苦しむのは、あなたのご両親が出逢ってしまった罪への罰ともいえるわ。これはあなたの 運命( さだめ )。でもあなたのお母様を、そしてお父様を許してあげて頂戴。あなたならきっと、大丈夫だから」
女性が電子パッドを下げたので、わたしははじめて、その顔の全貌を見ることができた。どこかで会ったことがあるような。口元には優しい笑みを浮かべている。
「いいこと、あなたにキャンディをあげるわ。もし“Kの遺伝子”に負けてしまいそうになったらこれを口に含みなさい。そして思い出すの、わたしたちはいつでもあなたを見守っているってこと」
女性の示した電子パッドに、見たこともないキャンディの瓶が表示されている。
「さあ、そろそろ時間ね。次に会うときは──」
その続きを、わたしは聞くことができなかった。突然の発作がわたしを襲い、制御できなくなった口からは──

「ヘ、ヘ、ヘックシュン」
「ヘックシュン」
「クシュン」

三つくしゃみをして、気がつくとわたしは薬局の待合室にいた。
「52番の方、窓口へどうぞ」
呼ばれて薬を取りに行く。
「山口さん、花粉症のお薬ですね。点眼薬、点鼻薬、飲み薬が出ています」
説明する薬剤師は若い男性で、ネームプレートには責任者と記されていた。細身の白衣に黒縁めがねが似合っている。
「花粉症は初めてなんだってね、お大事に。では隣で会計をお願いします」
会計窓口へ移動し財布を取り出す。そしておや、と思う。レジを叩く女性は白衣を着て背筋をぴんと伸ばし、さっきの女性に似ていて、……あの出来事は、夢?
「お会計は3,500円でございます」
低くてはっきりとした声も聞き覚えがある。けれどもわたしは、それどころではなかった。
「ヘックシュン、ヘックシュン。ずびばぜん」
今になってくしゃみが止まらなくなってしまった。鼻水も涙も滝のように出てくる。早く薬を飲まなければ。
「お大事になさってくださいね。よろしければこの飴、試供品ですけど、どうぞ」
お釣りと一緒に差し出された飴の包みまで見覚えがあるような、だけどわたしは頷くのが精一杯で、お釣りと飴とを右手に、左手で鼻を押さえながら、薬局を後にしたのだった。