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「おまえさん、いつまでこの舟に乗る気だい」

この人は顔をあわせるたびにこんなことを言う。

「この舟もすっかり古くなって、足も遅いし、なによりもう誰も乗せらんねくなっちまった。いい加減に次を考えといてくれよ。俺はもう何ヶ月も前からそう言ってんだからな」

わかってる。何ヶ月どころじゃない、もう一年以上も前から、彼はそうやって言い続けてきた。この間なんて乗船を断られた客が哀れにも波間に消えるところも見てしまった。もはやこの舟には、人っ子一人、ネズミ一匹乗り込めないのだ。アリならかろうじて5、6匹潜り込める。それが限界だった。

「でもさあ、愛着ってやつがあるじゃん。今更ほかのに変えられないよ」

わたしだって舟のなかは一日に何度も点検するのだ、そんなことはわかっていた。わかっていようとも、この舟はしっかりとわたしに馴染んで、なかなかに離れがたい。

「この型は廃番だっていうもんなあ、たしかに次を探すのは容易でないだろうぜ」

それでもこのままで良いはずがない。わたしは重い腰を上げて、新しい舟を探しに出掛けた。

 

舟を売る店には顔なじみがいて、わたしは彼に連絡を取る。もしもし、わたし、そろそろ新しい舟を買おうと思うんだけど。

「やっと買い換える気になった?」

彼の声は、 初めて彼から舟を買ったときと少しも変わっていなかった。

「まだあの舟に乗ってるんでしょう、もう4年も前の。あんなの化石だよ、化石」

5年前。わたしは心の中で修正する。

「いまさら何を買ったらいいかわからないんだもの。なにかおすすめはある?」

「4年前のに比べたらどれも全然マシ。だけどうちの店では『ジーエーエルエーエックスワイ』と『アイピーエイチオーエヌイー』がよく売れているかな」

「ジー、エー、…なんだって?」

最近の舟は型番が複雑で、一度聞いただけでは覚えられない。わたしは鉛筆を握り直して聞き返した。

「みんな、“銀河”とか“林檎”とか呼んでる。まあ、とにかく一度店に来てみなよ。触ってみて、欲しくなったら買えばいいさ。いまはどれも品薄で、すぐには手に入らないかもしれないよ」

「ありがとう」

あなたの店に行くかどうかはわからないけど、とは言わずに、わたしは『ぎんがとりんご』と走り書きしたメモ用紙をポケットにしまった。

 

「おまえさん、あの店に連絡したんだろ。いいのは見つかったか」

舟に戻るとすぐにその話題になった。

「ちょっと聞いただけじゃなにもわからなかった、けど、いまは“銀河”か“林檎”ってのが人気なんだって。このどちらかにしようかなあ」

わたしがメモ用紙を見せると、彼の顔が少し曇った。

「うん、…まあ、なあ。まあ、…引っ越しの準備はちゃんとしとけよ」

そのことを考えると気が重いのだけど、いざとなったらまたこの人を頼るからいいことにする。

彼は『ぎんがとりんご』の文字のとなりに『ジーエーエルエーエックスワイ』『アイピーエイチオーエヌイー』と書き加えてくれた。さすが、頼りになる。

 

店を訪れたのはそれから一ヶ月もあとのことだった。店の中には様々な舟が所狭しと並んでいて、案の定何を選べばいいかわからない。わたしはポケットからメモ用紙を取り出し、彼が書いてくれた文字を頼りに目当ての舟の前まで足を運んだ。

迷うまでもなかった。たくさんの舟の中でも一際目立つように『ジーエーエルエーエックスワイ』と紹介されているその舟は、とても薄く、そして大きかった。わたしの手から溢れて、いまにもするんと滑り落ちそう。それは彼が動かす舟とはあまりにも違う乗り心地だった。

それから裏に回り込んで、『アイピーエイチオーエヌイー』を手に取る。先ほどとは逆に厚みがあってコンパクトなこの舟は、意外なほどわたしの手に馴染んだ。

「なにかお探しですか?」

突然声をかけてきた舟売りは顔なじみの彼ではなかったが、

「新しい舟に変えようと思ってて、」

誰でもいいから声をかけられたらこれに決めてしまおう、とそこでわたしは思った。「でもこの型は品薄と聞いています。こちらの店には在庫がありますか?」

舟売りは少し考えるふりをして、でもそれが“ふり”だということはなんとなくわかった。わたしは“林檎”と呼ばれるこの舟を買うんだと、そして今の舟に別れを告げるんだということを直感した。

 

結果、店には在庫がたくさんあって、わたしはすぐに“林檎”を手に入れて帰ることができた。

「最近の舟は乗り心地が全然違うね。やっぱり今までのほうが乗り回しやすいなあ」

しかし、わたしが話しかけても彼からの返事はこなかった。

「ねえ、聞こえてる?」

今更になって、嫌な予感がした。引っ越しの準備はちゃんとしとけよ、と言った彼の声が蘇った。

「まさか…もうあんたの舟には乗れなくなっちゃった?」

まさか、まさか。けれども彼の声が再び聞こえてくることはなかった。

 

その晩、新しい舟を乗りこなすことができないまま、不安を抱えてわたしは眠った。手に馴染むと思ったこの舟は握りしめるとやはり違和感があって、そのせいだろうか、夢を見た。

「ほらみろ、だから準備しとけって言ったんだ」

今にも沈みそうな舟に乗って、彼が言う。

「こんなに違うとは思わなかったんだもの。ねえどうしよう、これからわたし、新しい舟でやっていけるのかな」

「知らん知らん。俺にはそっちのことは全然わからん。でもな、」

彼との距離が急に近くなる。

「夢の中でならいつでもこんな風に会えるんだぜ。だからあんまり心配すんなよ」

彼の後ろにはわたしが置き去りにしてきた荷物やなんかが垣間見えて、わたしは心底安心した。

「2年経ったらまた戻ってこいよな」

夢の終わり際に彼はそう言って、目がさめると耳もとをWi-Fiが飛んでいた。