日記

2016年11月22日 くもりときどき晴れときどき雨 タイヤ交換した

娘が夜寝る前におやすみを言う相手が増えたので、最近寝室に入るのに時間がかかるようになった。父親とネコとぬいぐるみ、それに加えて絵本数冊、ボール、牛乳ビン、ベビーカー、など。寝る前の儀式がたくさんあって全部こなさないと平和に眠れる気がしないのはすごくよくわかる、わたしにもそんな時代があった、けれどもこれ以上の儀式が増えませんようにとは思っているところ。

牛乳ビンというのは先日小岩井農場から買ってきたやつで、われわれは先日小岩井農場へ行ったのだった。小岩井農場は晩秋の盛りといったところで、最後の紅葉は美しく、また初雪がすぐそばにあった。動物に興味があるみたいな娘に牛さんとか馬さんとか羊さんとか見せてあげたかった、けれども羊は遠く、馬を怖がり、牛舎に着くころには寝てしまったので、娘がもっとも熱心に興味を持ったのはどんぐり拾いだった。拾ってきたどんぐりから虫が出てくる話を先輩から聞かされていたのでしばらくはトイレの窓辺において様子をみている。

この小岩井農場は「小野」「井上」「岩崎」の三名が共同創始者となり頭文字をとって付けられた名前で、岩手に「小岩井」という地名があったわけではなかった。小岩井農場内のレストランのメニュー表にそう書いてあった。われわれはひとつ利口になった。

すみやかなすみやかな萬法流転のなかに

小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が

いかにも確かに継起するといふことが

どんなに新鮮な奇蹟だらう

宮沢賢治春と修羅小岩井農場より)

メニュー表には宮沢賢治の詩もあった。この詩は詩碑として牛舎の前にも設置されている。そう今回岩手に行ったのは宮沢賢治を追ってのことでもあった。わたしは最近になって宮沢賢治が好きで、特に短歌が好きで、短歌のことだけでも理解を深められればと思って記念館を訪ねた。そうしたら宮沢賢治という人は、膨大な知識の上に童話とか詩とかそういうものをのっけているんだって、いま手元で読むことができる創作物は賢治の表現のひとつにすぎないんだっていうことがわかって、わたしは気持ちの整理が追いつかないでいる。もっと知りたいもっと知りたいとあれからずっと思っている。

記念館の近くにある童話村にも行った。エリア内では賢治ゆかりの音楽が流れていたのだけど、その一つとして「新世界より『第二楽章』」が流れていると思ったらなんと彼が「種山ヶ原」という詩をつけていたのだった。偶然にもそれこそ最近毎日この曲を聴いて通勤していたので、わたしはとても驚き、そして感動したのでした。

娘が「ひま」「ねむい」と言ったので、山をいくつか越えて帰ってきた。山をひとつ越すたびにに思うのは、「賢治が想う農村っていかにも太平洋側って感じがするぜ」ということ。日本海側の森は、林は、暗く湿っていて、紅葉はなく、田畑は小さかった。帰ってきてから本屋で「春と修羅」を買って、今は『第四梯形』がお気に入り。

一歌談樂vol.2 参加します

こちらの企画に参加します。

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3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)

 

 「理解」とはどの部分の理解を指すのでしょうか。わたしは今のいままで「電車が来る危険」を理解できるかできないか、で考えていた。けれどもそういえば、数あるプラットホームの中で「三番線」を選んだ意味も、電車の種類の中から「快速電車」を選んだ意味も、到着でなく通過してしまう意味も、理解できていない。

 ちなみに、わたしの住む地域は田舎だからプラットホームは大まかに「北方面行き」と「南方面行き」の二つしかなく、三番線というのは存在しない。ただし線路は敷いてあって、おもに貨物列車がそこを通過していく。当駅には(田舎といえども)快速も特急も停まるが、けれど一つ前の無人駅は特急や急行はおろか快速すらも通過していく。

 もしわたしがこの無人駅のプラットホームに立ったとき、北に行くでも南に行くでもなくただぼんやりと立ったとき、突然「三番線に~」とアナウンスがあったとしても理解できないだろう。危険か否かの前に、アナウンスの意味が理解できない。けれどもとりあえず「下がって」と言われれば、まあ下がると思う。

 それはわたしの意思で「意味わかんないけどとりあえず下がれの指示に従う」、というよりは、アナウンス側が「下がれの指示に従わせるためにとりあえず意味のわからんことをいった」、みたいな強引さも感じられる。アナウンスは、無人駅の自動アナウンスは、三番線に誰も近づいてほしくないのだ。

 ただし『さんばんせんかいそくでんしゃがつうかします』この意味を理解できる人がいるなら、特にアナウンスはしませんのでどうぞご自由に、そんな突き放した態度、引き留めることを諦めてしまった雰囲気まで感じることができる。

短歌の目10月 投稿します

遅ればせながら、10月も参加します。

よろしくご覧ください。

 

 

 

1. 渋
駅前の渋滞緩和を考慮して、まず真っ先にスズカケノキを、

 

 

2. 容

気を抜けばこぼれてしまう危うさの容量わずか18リットル

 

 

3. テスト

夜ひとり 女系家族の嫁として腹を決めればテストステロン

 

 

4. 新米
新米を楽しみに待つ楽しみはあと半年と六ヶ月先

 

 

5. 野分
午後二時の稲株そよとも動かせず野分は空を鳴らして去った

 

 

「空」
フォグランプ、もしてる匂い、家の鍵、『新世界より』第二楽章

一歌談欒Vol.1 参加します

こちらの企画に参加させていただきます。

よろしくお願いいたします。

 

dottoharai.hatenablog.com

おめんとか
具体的には日焼け止め
へやをでることはなにかつけること
(今橋愛)

 

「オトコっていいよね、朝起きて顔洗えばすぐに出かけられるもの」とは常々思っていて、わたしは女性だから、朝起きて顔を洗ってすぐに出かけるなんてとうていできない。お化粧をしなきゃいけない。化粧なんてめんどくさいもの、わたしにとってはたんなる身だしなみの一部にすぎないが、化粧をしなくても外に出ていく自信があるかといわれればないと断言できる。なぜ?素顔に自信がないから。常識がないと思われるのが嫌だから。みんなそうしているから。

どんなに薄付きでもとりあえず化粧をすれば出かけられるなんて、化粧はそんなに万能なのかい。自分と世の中を隔てるファンデーションは、自分の自信の在り方すらも変えてしまうから憎たらしい。けれども「自分に自信を持つ」ことができたことを、化粧の功績にはしたくない。自分が化粧をする一般的な「女性」としてふるまい、それによって社会に認められたことを、認めたくない。だから歌の中では、化粧の存在を「おめんとか」最大限に茶化してみせ、さらに「具体的には日焼け止め」、化粧の恩恵は一切受けていないと宣言している。それでも社会に出るには顔面になにかつけなければならない、その煩わしさ、そうしないといられないかなしさ、敗北感、が、漢字に納まりきらずに平仮名で漂っているのだと、おもいました。

 

 

今回の企画はつちのこさんが参加していたので知ることができました。

最近、短歌をちゃんと読めるようになりたいと思っていて、ひとつの短歌ついて参加者が感想を書く企画があったらなあ、とちょうど考えていたとこなので、まさに渡りに船と飛びつきました。が、短歌の感想ってほんっとうに難しい!頭の中にぼんやり浮かんだイメージを文章にするのってやばいちょうむずい。キーボードを叩くそばからイメージが散ってしまって、なにがいいたいのか自分でもわからなくなってしまいました。

短歌の鑑賞についての礼儀も作法もわからずですが、主催者の方が書きたいことを書きたいだけ、とおっしゃっていたのでそのように書かせてもらいました。ほとんど自分のこと書いただけじゃんていう自覚は、あります。

ドヴォルザーク「新世界より」第4楽章

2016年10月15日(土) 晴れ 今夜満月だった?

あれ、こんな時間にスクールバスが?

という時間にスクールバスが停まっていて、小学校の側に停まっていて、中からは楽器ケースやアコーディオンやを抱えた小学生が降りてきたからわたしには今日がどういう日なのかわかった。今日は市内の小学五年生が音楽ホールに集まって、学校ごとに合唱や合奏を披露する日だった。おお懐かしいな、わたしが小学五年生の時はドヴォルザーク新世界より」第4楽章を演奏したのだった。当時はこの曲が映画「ジョーズ」のテーマ曲に似ていると思った、と渡辺徹のラジオで言っていた、という情報を母から聞かされていた。それだけだった。

練習が進んだある日、一度だけ外部講師の指導があった。学年全体でホールに集められ、この曲の解説を受けた。「皆さん、「新世界より」の第2楽章は知ってるでしょう。♪遠き山に日は落ちて~、このメロディが、その後の第4楽章にも受け継がれているんですよ」。講師は傍らに持参したキーボードを置いて該当箇所を弾いたり、CDで第2楽章と第4楽章を交互に聴かせたりした。まじか!遠き山に日は落ちて、は放課後の末期に流れる音楽で、店でいうなら蛍の光だった。そんなまったりしたやつが、この「ジョーズの曲」のなかに組み込まれているなんて!意外!衝撃!

以前提示されたテーマが、その後に続く曲の中にも姿かたちを変えて、あえるいは変えないで、再現される、というのは(wiki先生に言わせれば「主題の回想」)、めっちゃいいよね!と今でも思う。本番が終わってもわたしはこの「新世界より」をおもしろいと思っていたし、演奏したことがある第4楽章はとくに細部まで憶えているから、よく聴いた。それで、赤子が産まれてからヒマしてたある日、ふとこの曲を聴かしてやりたくなった。我が子ながらモーツァルトを聴いてまろやかに育つのはちょっと違うと思ってたので(モーツァルトは好きだけども)、これを聴いてノリノリに育ってくれればいいなあ。くらいの心づもりで聴かせたのだけど、第1楽章から通しで聴いているうちに腕の中で眠ってしまった。ところで後日テレビを見ていたら、「産まれてくるベビーには「新世界より」を一番に聴かせてあげたいの。ようこそこの世界へって」と喋る女性が出てきたので、ああその考えイタダキ、と思ったのだった。

 


ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」第4楽章 ヘルベルト フォン カラヤン指揮ベルリン・フィル

 

交響曲第9番 (ドヴォルザーク) - Wikipedia

衣更え

2016年10月9日(日)朝のうち雨からくもりに変わるも、強風が続き肌寒い天気となりました 芋煮会は中止です

一年前からイモニィイモニ、芋煮セレモニーを楽しみにしていたのに、肝心の天気がこれじゃどうしようもない。この一週間で何度天気予報サイトを巡っただろうか、それが昨日になっても天気は好転せず、結局芋煮会は中止です。急にさむくなりやがって。えっいま白鳥の声聞こえなかった?、仕方ないから衣更えをした。

押入れから冬物の衣装ケースを引き出してフタを開けるとき、また今年もこの服を着なきゃならんのかという気持ちになる。この中にトキメク服とやらはそうそうない。なんでこれ買ったんだろって思う服ばかり入っていてがっかりする。でも買うときは確かにこれがよかった、それは覚えていて、同時に、そのあと家で着てみたら案外似合わなくてなんでこれ買ったんだろって思ったことも覚えている。ちゃんと試着もしたはずなんですけどね、とにかく服を買う時点ですでにセンスのないものばかり選んじゃうんだろうな。それが分かるから買いに行くのが億劫で、大体にして胸を張って服を買いに行く服もないからなんとなく卑屈になっちゃって、センスないなら温順しく雑誌とかマネキンの真似でもすればいいのに流行りのものは似合わないとかスタイルよくないと着れないとかまあそれはその通りなんだけど、結局無難を選んだ結果がなんだか中途半端なデザインの黒とかボーダーとか着回しできるようなできないようなものばっかり集まってきて、つまり全然トキメかない。それに、服を買うとき、服にお金を使うのをよくないと思っているのかもしれない、心の底では。衣食住なら衣服の優先順位は最後に位置付けられていて、必要ないとされているものにお金を払うのがこわいのかもしれない。ただしそう思うのは自分で自分の服を買うときだけで、夫や娘の服を買うときはお金のことはあまり気にしない。そんな彼らが所有する服はいつ見てもカワイイ、トキメク。たまに借りたりする。なんでだよ。それで、最小限の服を着回したいわたしと、いろんな色やデザインの服を並べて組み合わせを楽しみたいわたしがいるのに、安さの時点で着回し一択!みたいになって結局失敗するんだよなあ。ちなみに夏物もそうだった。今年買い足した夏服、来年になれば半分はトキメかないんだろうなと思いながら衣装ケースに仕舞った。本当に着なかったやつは処分して、残ったスキマには来シーズンのオシャレへの期待を詰めた。

短歌の目9月 投稿します

短歌の目、第二期がはじまって嬉しいです。よろしくご覧ください。

 

題詠5首

1. 星
オールナイト 非行少女はスモッグの上に煌めく星を知ってる

 

 

2. 吹
隣人は善人ばかり あなたにも山吹色のお菓子をあげる

 

 

3. はちみつ
はちみつのやさしさなんて無関係バウムクーヘン焼きは短命

 

 

4. 川
モモタロや、ガンジス川を下るときルート分岐は恒河沙にある

 

 

5. 秋刀魚
ながからむ髪を刈ってはちゃぶ台へ やあ待たせたなごめんな秋刀魚

 

 

テーマ詠「秋」

モノクロの世界だろうと構わないこの新米が真っ白だから

 

 

じんるいよこよいの月はしょうがいでもっとも綺麗とおしえてやろう

 

 

サイレンは遮るものもないままに過ぎ去ってゆくなにもない秋

 

 

最近の服の寿命というものを知りたくなくて祖母のセーター