日本の総人口は

2016年2月4日 晴れ晴れ 立春

日本の総人口は一億二千六百八十二万人*1、平均年齢は四十六歳*2、よって昨日撒かれた豆の数は五十九億六千五十四万個。なお大豆ひと粒の重さは〇.三五グラム*3であり、大豆の年間収穫量は二十三万千七百トン*4つまり六千六百二十億粒だから、昨日撒かれなかった大豆は六千五百六十億三千九百四十六万個。これらの大豆をすべて挽いた場合にできあがるきな粉は二十二万九千六百十三.八一一トンで、百八十三億六千九百十万四千八百八十個のうぐいす餅*5を作ることができる。この数は日本人が節分で口にする豆の三倍にあたる。なお国産大豆の使い道はほかに考えないものとする。

渡辺翁

2016年1月29日 くもり 急激に食欲が増す

お客様、お忘れ物がございます。

忘れ物には「○○村 渡辺 電話番号×××-××××」と明記してあったので電話をかけると、春までとっておいてくれ、という気の長い返事が返ってきた。春までってなんだそりゃ、こちらで預かってますから早いとこ取りに来てくださいよ。電話を切ってしばらくすると古い型式のカブに乗った渡辺翁が忘れ物を取りに来た。わたしはこの翁を知っている。

「今年は雪は降らないよ」と渡辺翁が宣言したのは昼の陽射しがまだ暑かった10月のことで、彼は茶色い長袖のポロシャツを着ていた。カメムシが少ないとか秋野菜が豊作だとか、そういう“兆し”みたいなものでもありましたか?いいやそんなんじゃない、おれが降らないと言ったら降らないのだ、そうじゃなきゃカブに乗れなくなるからね。そんな会話をして去っていった渡辺翁、御年80有余年。カブは自転車みたいな速度で乗り回すから安全だと言っていた。

カブの爺さん、春まで取っておいてくれと言ったのは雪道を運転できなかったからだった。ところが今日の天気はくもり、路面の雪は融けきって、道路はカラッカラに乾いている。路肩のところどころや空き地の一部に雪が残っている様はまるで春のはじまりのようだった。この冬の雪は正味一週間も降っていないのではなかろうか。それで車庫からカブを引っ張り出し、トコトコやってきたらしい。カブ乗りたさに雪を降らせないそんな渡辺翁は春の妖精。1月の勤務は本日で終了です。

お題「雪」

2016年1月27日 雨 この雨で道路の雪はすっかり融けた

右に左に上に下に、揺さぶられながら車を運転する。なぜって雪の塊が道路に横たわっているからで、うっかりスピードを出して突っ込むと車は小さくジャンプした。ラジオからは外国の日常会話が流れていて、イタリア人Aがおふくろの味を紹介していた。あたためたオリーブオイルでニンニクとスモークサーモンとバジルを炒めたものを、スパゲティに和える。午前11時のわたしは腹を減らしてそれを聴く。スモークサーモン。正直言ってスモークサーモン以外のレシピはほとんど頭に入ってこなかった。イタリア人は日常的にスモークサーモンが手に入る生活をしているのだろうか、鮭を釣り上げて自家製の燻製を作っているのだろうか。うらやましい。よく冷えた白ワインと一緒に食べたいと、イタリア人Bは言っていた。

門柱よりも高い雪の壁の向こうに対向車の影を確認しながら、おいしいスパゲティとその代償となるものについて考える。オリーブオイルでスモークサーモンを炒めるとき、きっとコンロの周りは油まみれになるだろう。茹でたてのスパゲティを絡めるとき、茹で汁は鍋の周りに飛び散るだろう。そしてなにより、スパゲティは出来上がった瞬間に食べ始めるべきだろう、使用した調理器具をほったらかしにして。その一連の流れを考え、残された台所の様子をイメージしたとき、このスパゲティを作るのはやめようと思った。

大雪が降ってからきれいに除雪された道路は、雪が積もる前よりも広く感じる。センターラインも路面標示もすべて白く埋もれて、視界が広がったように感じる。感じるだけで、実際の視界はそこかしこの雪の壁に遮られ、たまの晴れ間に乱反射する太陽光と雪の照り返しは目を眩ませる。そのうえきれいに除雪された道路は雪が踏み固められ、それはもう滑るすべる。わたしが緩やかな右カーブに差し掛かろうとしたとき、対向車が滑りながらこちらに向かってきた、それを避けようとブレーキを踏みハンドルを切ったわたしも滑りながら雪の壁に突っ込んでいった、結果2台とも無傷で互いを回避し、わたしは半回転して雪の壁にぶつかって停まり、対向車はその後大きく滑りながらも態勢を立て直して去っていった。一瞬の出来事だった。呆然としてしばらく動けなかった車内では外国の日常会話が流れていて、ドイツ人Aが音楽に並々ならぬ興味を持ち始めたこと、ドイツ人Bが音楽よりも今はスポーツに興味があること、などを話していた。

一昨日の話です。

 

お題「雪」

これはメモです、コインランドリーに関する。

2016年1月26日 くもり 寒くない一日

日曜日にコインランドリーに行く。
マットレスカバー1枚、シーツ2枚、タオルケット2枚、毛布カバー2枚、掛布団カバー2枚、枕カバー2枚、子供用の敷布団カバー1枚、掛布団カバー2枚。を23kg用の洗濯機に入れて1,000円投入すると洗剤を含んだ水が出てきて、32分30秒待てと言われる。32分30秒待ってできあがった洗濯物を乾燥機に入れ500円投入すると、30分待てと言われる。30分待って取り出した洗濯物はホカホカ温かかったけれども、フンワリいい匂いではなくパサパサして無味無臭だった。寝具はなるべくなら無臭のうえ硬い肌触りが好きだから、この仕上がりは結構結構。
結論。我が家の寝具をコインランドリーでまとめて洗うのに必要な金額は1,500円、所要時間は1時間とちょっと。満足度大。

ネコのために毛布を出しております

2016年1月11日 くもりときどき雪 冷えてきた超冷えてきた

家の外どころか部屋の外まで超冷えてきたけど、この部屋は一日中つけていた暖房のおかげであたたか。それでもネコが居場所を探して近づいてきたから、毛布を広げております。

 

元旦の夜を最後に娘におっぱいをあげていない。復職してから一日二回だったおっぱいが1歳を過ぎてから一日一回になり、それが元旦の夜を最後になくなった。おっぱいがないと眠れないと思っていたけどそうでもなかった。おっぱいが張ってしょうがないというわけでもなかった。きっぱり断乳宣言をしたわけではないけど、たぶんこのままなんとなくおっぱいを卒業するのだろう。なんとなく、というやり方はわたしの好みに合っている。

するとどうでしょう、それから間もなくして彼女は自分の足で立つようになった。それを教えてくれたのはわたしの両親で、日中は預けているから迎えに行ったときに「今日立ったよ」と教えてくれた。最初に気づいたのはわたしではなかった。ちょっと悔しい。記念すべきその日は1月6日。そこから一日ごとに立つ回数、立っていられる時間を延ばしていき、今日はついに、地面に両手をついて立ち上がるまでに発展した。成長の過程はなんと早いのだろう、と思いながら見守っている。

 

職場のおっさんのメタル熱にあてられたわけではないけれど、最近わたしの音楽熱が再燃していて嬉しい。といっても主に動画サイトを回るだけなのだけど、布団の中で見ることができるから娘の寝かしつけの後のお楽しみになっている。新しいジャンルを開拓しようかどうしようか、迷っているのも楽しい。そしてアコースティックギターを練習してみたい。楽器を買うなんて生まれて初めて!

今年の書き初めは「早寝早起き」

2016年1月2日 仙台は晴天なり 帰路に雪なし渋滞もなし

新年を迎えた夫の実家では豪華なおせちを用意してくれていて、黒豆や数の子に負けじと存在感を放ったなにかをかじりながらここに酒があればなあと思ったのだった。なにかはカタカナで作られていて、これも黒豆や数の子のような縁起の良いいわれがあるのだろうか、そんなことを考えながら布団に入れば夢に川越達也がでてきて、簡単なサラダを作れという。わたしが水菜を包装のビニールから出していると川越達也が「その水菜、今から洗うのか」と訊いてきた。普段家で料理するときは一通りの野菜を洗っているからこの水菜ももちろん洗うつもりだったのに、カリスマシェフと呼ばれる人がわざわざそう訊くからには洗わないのが正解の気がして洗いません、と答えれば、「客に出すのに洗わないわけなかろう、そもそも普段は洗っているくせにカリスマシェフの質問だからとわたしの顔色をうかがって答えを変えるのは良くない、自分の思ったとおりのことを素直に言った方が良い」と諭されて、これはわたしが職場で居心地よくいるためにいつもしていることにそのまま当てはまる気がして、今年はもう不要な気遣いをしないよう心がける。2016年の初夢は意味のあるものをみたので儲けた気分。
おみくじは大吉で、これがまあどこをとってもなにをしてもうまくいくっていう大吉のお手本みたいに良い籤だったので、ありがたく持って帰ってきた。今年は本厄だけど、なんとかなると思う。

年賀状を印刷しているあいだに洗い物をしようと思っていたのに気づけばインターネットしてしまっている

2015年12月29日 くもりときどき雪(固め) 昨日よりマシかと思えど昨日より粒が大きい雪に打たれた

毎年のことながら年末は忙しい。今年は娘もいるしー、職場も異動したばかりで仕事に慣れないしー。忙しいふりをして年末始末を後回しにし続けて、気づけば明日と明後日しか、ない。年賀状も大掃除も終わって、ない。というか手を付けて、ない。それでいま、年賀状を印刷しているところ。年賀状に子どもの写真てどうなの、という議論を目にしたし我が家でも少し検討したけど、結局ここまで時間がないと娘のベストショット一枚でどうにかなるならどうにでもなれみたいに思っている。そんな心をこめた年賀状に、これからメッセージを書き込む。来年は版画してみたいな、と時間もないのにそんなこと思ったのはこのあいだ池田修三の版画を見に行ったから。

 

「短歌の目」第一期が終了し、卯野さんが参加者ひとりひとりにコメントをくださった。それから以前にもわたしの短歌を選出していただき、評をくださった方もいます。わたしはそれらをたいへん嬉しく、ありがたく読みました。他人からの評価は目から鱗の表現ばかりで、それはわたしが短歌というものに触れてまだ日が浅いから?それとも「鑑賞する」ために必要な知性、感性、技術などが未熟だから??評されて初めて気づくようなことばかりで、自分の作品なのに自分で気づけなかったことが悔しいと感じることもありました。わたしに評価をくださった方々はまたほかの参加者にも評をしていて、それらを読むのももちろん楽しかったけど、わたしには思いもよらない言葉で的確に表現されたコメントにいつかは自力でたどり着いてみたいと、最近特に思っている。

そうですわたしは短歌を「読みたい」。そう思ってから、市立図書館に行ったときは短歌コーナーを徘徊する習慣ができた。わたしはかたちから入る人間なので、以前「短歌の目」で話題にもなった“短歌の作り方について”の本はすでに何冊か借りている。それが先日は“短歌の評について”ものすごく気になっていて、そうしたら棚にちょうどよさそうな本があったので借りてきた。

これでよくわかる短歌鑑賞・批評用語

これでよくわかる短歌鑑賞・批評用語

 

 のに、読みこむ暇もなく返却してしまった…年が明けたらゆっくり読めるよう、ここにメモしておく。

歌集を手にするのはまだ早いというか、短歌の鑑賞の仕方を知らないうちに好きな作家ができようものならそのひとの作風に染まってしまうのではないかという気がして、まだ読めないでいる。そうやって頭で考えてしまうとだめなのだろうか、でもわたしはかたちから入る人間だし。