たとえば重い机をひきずったときのような

2017年8月7日(月) こちらは台風前前前夜

映画『君の名は。』観た。初見だったがあらすじはほとんど知っていて、だけど隕石衝突の場面は心にくるものがあり、町中にサイレンが鳴り響いて防災無線が繰り返されるさまは身近な災害を連想させた。たとえ犠牲者が出なくたって町は壊滅じゃないか、町の人は集団で都内のどこかに(おなじ街のおなじマンションなんかに)避難してきたんだろな、身の回りのものは何も持たずに、置いていかれたペットたち家畜たち…、などに想いを馳せてしまい、終盤はあまり集中できなかった、おかしいね。物語前半はあんなにノリノリだったくせに、途中で空気がザッと変わった、それが最後に再びサッと変わって、そこについていけなかった感ある。エンドロールのあと夫をみたら、彼は泣いていた(要所要所で感動したといっていた)。RADWIMPSよかったね。たぶん繰り返し観たくなる映画だ、といっていた。さて、今のうちに購入してしまうのと毎回ゲオで80円で借りてくるの、どっちが得だろう?

 

 

6月頃やっと保育園に慣れてから笑顔でいってきますができるようになった娘だが、最近は園の玄関で靴を履き替えなくなってしまった。できないんではなくしないのだ。母と離れたくないのはわかる。けれども玄関先で15分も履くの履かないの押し問答し、仕事に遅刻するかもという焦りと、「はやく履かないと天狗が来るよ」などとさんざん脅しまくって可哀想かなという気持ち(効果はない!)、ほかの保護者からどう見られてるんだろうという自意識(ムダなというのは存じております)、ここが家ならちょっと大声出して叱ってみるし、外出先なら泣こうが喚こうが抱きかかえて無理矢理連れていくことも出来ようが、保育園だし毎朝笑っていってきますしたいし、などとひとりでイリイリしているとよそのお友達とお母さんがきて、「あら~娘ちゃん靴が履けないのね、一緒に応援してあげる、ほらがんばれがんばれ」と言われると娘はすぐに靴を履きやがって、そのお友達と手を繋いで走っていってしまった。わたしはなんか情けなくって、もうその場でコンタクトがずれてしまったよね。そのお母さんの顔も担任の顔もろくに見れないまま園を出て、通勤の車の中で盛大にコンタクトがずれた。そんなかんじで先週の水曜の午前中わたしはとっても落ち込んでいて、たとえば同僚の何人かは朝から機嫌が悪くこちらがなにか聞く前に「今朝は子どもと喧嘩してきた、ああイライラする」と言ったりするけど仕事場では切り替えろよな、と思ったこともあったけど、それってこういうことだったんだ、全然気持ちが切り替わらなかった。

昼休みは珍しく先輩と二人きりで、よく喋る先輩だから息子の部活の話題などをふると案の定よく喋った。けれどもその話を掘り下げていくと、息子は部活の顧問と相性が悪く過小評価を受けているようで悔しい、みたいな流れになって、えっ先輩ちょっとコンタクトがずれてる? そこでわたしは話の舵を大きく右に切った。

子どものことで心が動いてしまったり、たとえ他人の前でコンタクトがずれてしまったって、それはしょうがないことなんだ、重い机をひきずったときのようないやな手応えと疲労感があったとしても、それも日常なんだ。

次の日は無理矢理靴を履かせるという強硬手段に出たので娘は園の玄関先で突っ伏して泣きわめき、困っていたところに担任が通りかかって「あとはいいのでお母さん仕事に行ってください」と言ってくだすったので助かった。園の玄関で転がって泣き喚く子どもは今まで見たことなかったので動揺して、ちょっとコンタクトずれそうになった。子どもが泣いたまま先生に引き渡したらなんか悪い気がしてたけど、先生の対応が温かくてそこでコンタクトがずれた。

その次の日は、もうギリギリまで付き合ってやるぞと楽な気持ちで向かったところ、あんがいすんなり靴を履いてゴキゲンでいってきますができたので、もうなにが正解かわからない。この日コンタクトはずれなかった。