人格とは

2023年4月30日(日)雨 久しぶりの雨の匂いだった

かわいい息子2歳の、両手両足もかわゆく、おなかもお尻もまたかわいい。しかしそれは例えばネコの前脚を愛で肉球を吸うときとは違うなにかを感じる。

息子の右足を愛でてから靴下を履かせるとき、右足には右足の、左足には左足の人格があるように感じる。「みぎあしくん」と「ひだりあしくん」である。娘の、汗ばんでマメだらけの手のひらをかわいいと思うことはあっても、娘の手のひらに人格は感じない。

思うに、まだ完全には息子の思いどおりに動かせない手足が、一人では服を着るのも靴を履くのもままならない身体能力が、身体のパーツ一つひとつに人格を持たせているのではないだろうか。

身体のパーツひとつといってもどこまで細かく人格を感じるか、想像してみるが、足の親指には感じるが中指には感じない。小指は少し感じる。お腹に人格を感じるが、ヘソにも感じる。背中にはあまり感じない。後頭部は顔とは別の人格を感じる。顔をみればもちろん「息子2歳」としての人格を感じる。チンチンとキンタマはそれぞれに感じる。髪を結べば結んだ部分に感じる。

そんなふうにあちこちに存在する人格を、感じつつ、いつしかこの人格が薄らいで、「息子○歳」の人格しか感じず、そして手足に人格があったことすら忘れてしまうのかな、としばらく考えている。