日記

2020年9月23日(水)晴れ 稲刈り日和

職場がある地域に短歌会があって、そこの先生が来店されたときに短歌の話をしたところ、入会を勧めてくださったのでそうすることにしました。それではじめてお題をいただいて提出した詠草が、先生の添削を経て先日の地元紙に掲載されました。そしたらさ、原型留めてねえでやんの。

提出に先だってはまず文語体であること、これは先に短歌誌を見せていただいたときの作品すべてが文語体だったので、そういうもんかねと思いながら辞書で活用形を調べつつ体裁を整えた、その文法に間違いはあるだろうから、ここに先生の赤ペンが入るのはありがたいことです。しかし!フレーズが言い換えられ、順序も入れ替わっており、これをわたしの同意なく新聞に載せてしまったら、これはもう、自分の歌とは思えません!この気持ちはそうだ、以前公民館で生け花を習っていたときもそうだった。生け終えたひとから作品を見ていただくのだが、見るなり先生はわたしの生けた花のほとんどを剣山から引っこ抜いて生け直し、それが完成形となるのだった。かなしい…

と思いつつも掲載欄の写真を撮った。おらの短歌が新聞に載っただと母ちゃんに報告しようと思った。けど、「これはほとんどが先生の手によるものです」を直接伝えないと気が済まなくてまだ連絡していない。自分の歌がそうであるならば、同じく掲載されているこの人たちも、この歌いいなあと思った歌も、すべて先生の作品なのでは、と寂しい気持ちになってきている。

 

 

最近、子がちょっと不安定で、強めに怒られてしまったこととか、兄弟ができるかもしれないこととか、保育園の運動会が近くてプレッシャーを感じているらしいこと、季節の変わり目、もろもろのストレスから、子は昨日の夜寝付けなくなってしまった。疲れて眠いはずなのに呼吸が気になって眠れない感じ、見ていてかわいそうだった。わたしとしてはやっぱり安らかに寝入ってほしくて、耳元で「ひつじがいっぴき、ひつじがにひき…」と囁いていると、羊が180匹あたりで眠ったようだったので安心した。キリよく220匹まで数えてやめた。羊を心のなかで数えることはあっても口に出して他人を眠らせるのは初めてかもしんない。「ひつじがにーじっぴき」まではスローペースでいけるが、「ひつじがにーじゅういっぴき」からは口にする文字数が多くなり、リズムを崩さないように、息継ぎも工夫せねばならず、まるで僧侶の読経が佳境に入ったときのような高揚感があった。子が眠るまでずっとなにかを口ずさんでいるの、ほんとうに小さかった頃の寝かしつけのとき以来だな、とふと思った。